東日本大震災被災地を訪ねて

宮城県 南三陸町

【概要】

震災直後(2011年4月末)、震災翌年(2012年4月末)、震災2年後(2013年4月末)に視察し、震災3年後(2014年)は特に住宅造成に重きを置いて視察した。

南三陸町は、北は気仙沼市、南は石巻市に接し、大きくは旧・歌津町(伊里前)と旧・志津川町、およびその間に位置する高台のベイサイドアリーナ地区からなる。伊里前の津波の浸水高は海抜15mを超え、国道45号の高架橋の橋桁が流出した。志津川でも志津川病院の4階、3階建て防災庁舎の屋上まで浸水しており、津波浸水高は海抜15mを超えたと思われる。なお、志津川では保育所、小学校、中学校、高校が高台にあり被害を免れたが、海抜15mにある元・中学校敷地に建つ慈恵園では浸水深2mで1階の天井下30cmまで浸水し利用者48名、職員1名が亡くなった。南三陸町全体の死者・行方不明者は820名である。

 

【視察報告】

震災直後(2011年4月末)は国道45号で気仙沼市小泉、南三陸町歌津を通って南三陸町志津川に向かった。途中、南三陸町清水浜(しずはま)では海抜15mを超えるJR気仙沼線の線路に大量の衣服などの津波痕跡があり、清水浜駅~志津川駅間の新井田ではトンネル入り口の橋梁が破壊されていた。志津川では志津川病院、防災庁舎の被災状況を視察した。なお、志津川病院では入院患者72名、看護職員3名が亡くなった。

 

震災翌年(2012年4月末)は気仙沼から国道45号を通って志津川に入った。途中、気仙沼市小泉や南三陸町歌津などは通過した。志津川では志津川病院、防災庁舎を視察、津波は3階を超え、浸水深さで12m、浸水高で15mである。その後、海抜30m付近にある志津川小学校と小学校横の仮設住宅、海抜15mで49名の犠牲者をだした慈恵園をした。さらに上流側にある合同庁舎でも津波は3階を超えており、津波は龍のように上ってくるイメージを持った。その後、海抜40m付近の志津川中学から志津川全体の状況を視察し、対岸高台に無被害の旭ヶ丘団地を訪問し、住民の方に高台に住んだ経緯をお聞きした(個人の判断とのこと)。この後、国道45号で戸倉へ向かった。戸倉小学校は校舎屋上まで津波に襲われたが、隣の戸倉保育所とも高台への早期避難を選択し、多くの児童・園児が無事であった。戸倉を視察した後は国道398号で石巻市十三浜に向かった。

 

震災2年後(2013年4月末)は気仙沼から国道45号で歌津(伊里前)に入った。伊里前では高台の小学校下の「伊里前復幸商店街」を視察したのちに伊里前小学校を訪ねた。伊里前小学校は高台にあるものの1階まで浸水したものの、児童はさらに高台の中学校へ避難し無事であった。その日は前年と同様のホテル観洋に宿泊、翌日は壊滅的被害の志津川駅、かろうじて被害を免れた志津川保育所、解体中の慈恵園、慈恵園から高台の志津川高校への避難路、防災庁舎等を視察し、ベイサイドアリーナに向かった。ベイサイドアリーナは志津川から歌津に向かう丘陵地にある。志津川と歌津が市町村合併する際、町役場などの機能を置くために開発されたと聞く。従来からある体育館(最大の避難所となった。現在も店舗再開情報が掲示されている)のほか、現在は仮町役場、消防署、公立診療所と薬局、図書館、社会福祉協議会、ボランティアセンター、そしてJR気仙沼線(現在はBRT)の仮設駅など町の機能が移設されている。今後、町はこの地域と旭ヶ丘の後背地をメインに復興住宅建設が進められると予想される。なお、図書館の脇に清水浜駅のホームにあった駅の表示板が設置されている。清水浜駅が壊滅的に被災しているためである。

 

震災3年後(2013年4月末)もホテル観洋に宿泊し、翌日は南三陸町全域の復旧状況を視察した。まず、ベイサイドアリーナ地区で仮設の町役場や診療所の東側の大規模な造成状況を視察した。その後、清水浜地区に向かった。清水浜地区の復興住宅地の造成工事はほぼ完了しているが、JR気仙沼線清水浜駅付近は、三陸鉄道と異なりほとんど手つかずである。その後、寄木・韮の浜地区の造成状況を視察し、歌津地区に向かった。歌津では中学校上に大規模な造成工事が行われていた。次に歌津から2km内陸の高台に従来からある吉野沢団地を視察した。吉野沢団地は旭ヶ丘団地と同様に住民自らが高台を選択した地域と思われる。次に海岸から2kmの伊里前川上流にある「波来の地」の石碑(津波の到達位置を示す)を視察した。「波来の地」の石碑は宮城県の大学生を中心に展開されているプロジェクトである。その後、沿岸部の戻り、名足地区の復興公営住宅建設状況を視察した。最後に志津川地区の戻り志津川高校のモアイ像などを視察した。

2011年4月24日

2012年4月30日

2013年4月30日・5月1日

2014年4月29日