東日本大震災被災地を訪ねて

宮城県 石巻市北部(旧・北上町、河北町、雄勝町)

【概要】

震災翌年(2012年4月末)、震災2年後(2013年4月末)。震災3年後(2014年)に視察した。

石巻市は、北は南三陸町、南は東松島市に接する広域な市で、中央部に女川町があり、ここで石巻市北部とは南三陸町と女川町の地域を指す。石巻市北部は追波湾に面した旧北上町十三浜(大指、小指、相川、大室、小室、吉浜など)、北上川右岸の旧河北町(長面、釜谷など)、雄勝湾に面した旧雄勝町(雄勝、水浜など)があり、津波は十三浜小室では遡上高が海抜30m近い。浸水高は十三浜全体ではおおよそ海抜15mで、石巻市役所北上総合支所では近くの吉浜小学校の児童を含め多くの方が亡くなった。北上川右岸では河口の長面浦での浸水高は海抜4m程度であるのに対して、大川小学校のある釜谷では浸水高は校舎の2階の屋根に達する海抜10mで、地域では200名近くの方が亡くなり、大川小学校では74名の児童が犠牲となった。雄勝では津波は3階建ての雄勝病院の屋上を超え、入院患者、医師、看護師など64名が死亡した。北上、河北、雄勝地区を合わせた死者・行方不明者は930名、石巻市全体では3,710名である。

 

【視察報告】

震災直後(2011年4月末)は南三陸町で日没、国道45号で宿泊地の仙台へ向かったため、石巻北部の視察を行っていない。

 

震災翌年(2012年4月末)は南三陸町戸倉から国道398号を通って旧・北上町十三浜に入り、西から東に向けて視察した。十三浜相川では小学校、保育園が壊滅的被害を受けたが、高台の旧・中学校跡地の開所間近の新・相川保育園に避難し、子供たちの犠牲者は出ていない。なお、この高台は昭和の三陸地震での集団移転地(集団地)でもある。その後に通った白浜では住民の方々から防災集団移転促進事業の検討状況を説明していただいたほか、復興住宅建設地を視察した。さらに西に移動、吉浜では吉浜小学校が最上階の3階天井まで浸水したが、校内にいた校長、教員、児童数名は屋上に避難し無事。隣の北上総合支所は海抜6.5mに建つ2階建てで避難者57名の内、死者・行方不明者は54名、この中に吉浜小学校の児童7名が含まれている。その後、仮橋が開通していた北上大橋を対岸に向かうが、北上川を挟んで臨む大川小学校の立地がいかに危険かよくわかる。大川小学校がある釜谷地区の今昔を比較すると、在宅していた地域の方(200名)のほとんどが亡くなったことが理解できる。大川小学校のすぐ近くには裏山にある稲荷神社への参道もある。地域の方も逃げなかった。次に釜谷トンネルを通って雄勝に向かった。雄勝中学校・雄勝小学校とも校舎を超える津波に襲われたが高台への避難が成功している。その後、国道398号から対岸の雄勝病院を視察した。雄勝病院の脇には高台への避難路があったにもかかわらず、医師・看護師は患者を見捨てることなく最後まで寄り添った結果、多くの犠牲者が出た。

 

震災2年後(2013年4月末)も南三陸町戸倉から国道398号を通って旧・北上町十三浜に向かった。相川小学校は解体されずに残っていたが3月末で閉校となって明治6年開校以来の140年の幕を閉じた。相川の西側に大室・小室地区がある。小室地区の津波の遡上高は海抜30m近く高台の数軒を除いて大半の家が流出した。しかし死者は2名に抑えることができた。わかめの生産は再開されており、高台の宅地造成も始まっていた。

さらに小室に西が吉浜である。吉浜には吉浜小学校と石巻市役所北上総合支所があり、総合支所には公民館、図書館、消防出張所が併設されており、地区の避難所となっていたため、吉浜小学校の児童7名を含む多くの方が亡くなった。小学校は3階建ての3階天井まで浸水したが、学校に残っていた教員と児童数名は屋上に逃げて無事であった。北上総合支所は解体され、吉浜小学校も解体が始まっていた。北上大橋を対岸に渡ると大川小学校がある。大川小学校ではなくなった大川地区の物故者の碑が建立されていた。大川小学校のある釜谷地区では160名で高齢者と幼い子供であり、若い方は勤務に出ていたのであろう。次に向かった雄勝では雄勝病院の解体作業が進められていた。

 

震災3年後(2014年4月末)も南三陸町戸倉から国道398号を通って十三浜に向かった。まず相川では相川小学校が解体されたことを確認、次に小室では、小室漁港の荷揚護岸は被災したままで復旧工事は着手されていないが、各事業者のわかめ加工施設が復旧しており、地区の高台移転造成工事も完了していた。次に吉浜~橋浦では、吉浜小学校が解体されて跡地に慰霊碑が設置されていた。十三浜の被災者の多くは運動公園にっこりサンパークの大規模な仮設住宅に入居している。住民が仮設住宅近傍に居酒屋を開設するなど、協力して明るく生活しているように思えた。なお相川小学校や吉浜小学校は閉校となり、橋浦小学校に統合、新たに北上小学校として再出発した。その後、北上大橋を渡り、大川小学校のある釜谷~長面地区に向かった。釜谷地区や長面地区では新たな慰霊碑が設けられ、大川小学校だけでなく地区全体で自宅にいた方々の多くが亡くなったことが予想される。長面地区は地盤沈下のためか、長い間広範囲に海面下となっていたが、排水が進み護岸工事が始まっている。その後、雄勝町に向かった。雄勝病院は解体され、犠牲者慰霊碑が設けられていた。

2011年

2012年4月30日

2013年4月30日・5月1日

2014年4月29日