東日本大震災被災地を訪ねて

岩手県 宮古市田老地区

【概要】

震災直後(2011年4月末)、翌年(2012年4月末)、2年後(2013年4月末)および3年後(2014年4月末)に視察した。

宮古市田老地区は宮古市北部にあり北は岩泉町に接しており、万里の長城と言われた海抜10mの防潮堤で知られる。これは昭和三陸津波での田老の津波浸水高に対応した高さであり、明治三陸津波での田老の津波浸水高は海抜15mであったことは田老の住民にもよく知られていた。東日本大震災での田老の津波浸水高は田老観光ホテルや田老漁協の被害から明治三陸津波と同じ15m程度と思われる。その結果、田老では死者・行方不明者は181名に及んでいる。なお、明治三陸津波および昭和三陸津波での旧・田老町の被害は下記の通り。

●明治三陸津波:死者・行方不明は1900人(当時の人口2600人の73%)

●昭和三陸津波:死者・行方不明は約900人(当時の人口1800人の50%)

 

【視察報告】

震災直後(2011年4月末)は岩泉町小友から国道45号を南下し、グリーンピア三陸宮古に向かった。グリーンピア三陸宮古では2005年に地域安全学会を開催しており、広大な敷地や体育館、宿泊施設などがあり、避難所および仮設住宅建設地として最適と予想していたが、4月下旬の段階で多くの仮設住宅の建設が進められていた。田老町に入ると壊滅的な被害を受け、道路啓開は実施されていたが、ガレキは撤去されておらず、防潮堤からは遠くに田老漁協と田老観光ホテルが望める。防潮堤は最初に造られた堰堤はほぼ無被害でるのに対して、追加されたRCの壁式の堤防は完璧に破壊されていた。

 

震災翌年(2012年4月末)はグリーンピア三陸宮古に宿泊した。グリーンピア三陸宮古に造られた仮設住宅は400戸(1200人)。宿泊施設には避難者向けに診療所や薬局が設けられ、仮設店舗(たろちゃんハウス)は2011年5月にテントで第一陣が開店、9月にプレハブ3棟に24店舗が入居。居酒屋で仮設住宅の方々と話をした。仮設が5年もっても心はもたない。田老では田老漁協、田老中学、田老観光ホテルを視察した。田老漁協では組合長や職員の方からお話を伺った。2階の窓ガラスを破って津波が襲来したが犠牲者は出ておらず、この視察時点で1階においてワカメ出荷作業が行われていた。田老観光ホテルは3階天井部分までが壊滅、地盤高を加えて津波浸水高15m程度と思われる。防潮堤の高さが明治三陸津波の浸水高15mであれば被害を抑えられた可能性がある。田老中学校はグランドが数十センチ浸水したものの被害はなく、通常通り使用されていた。田老中学校近くには新たな津波記念碑が建立されていた(150名を超える被災者のお名前が記されていた)。

 

震災2年後(2013年4月末)も前年と同じルートで田老に入った。まず摂待に立ち寄った。摂待川河口部の津波遡上高は海抜30m近いが、津波は三陸鉄道北リアス線の線路手前で止まり、摂待駅や田老第三小学校、付近の住宅地の被害はない。次にグリーンピア三陸宮古近くにあり、津波遡上高38m(海抜)を記録した小堀内漁港を視察した。住民の被害はないが、海抜20mの高台から津波の様子を観察していた消防団員6名が犠牲となった。次に田老町に入り、住民が使った津波避難路を視察、田老観光ホテルでは松本勇毅オーナーにホテル内部を案内していただき、被害状況や、ホテルから撮影した津波動画の説明を受けた。その後、例年と同じように防潮堤に上がったが、新たに多数の網小屋群ができ、復旧が進んでいると感じられた。田老中学校では敷地内の田老公民館およびその裏手の高台への避難路を確認した。三陸鉄道北リアス線の田老駅付近は、駅前の住宅などがなくなり何もないため、震災の爪あとは感じられないような錯覚に陥る。

 

 震災3年後(2014年4月末)も前年と同様、岩泉町小友から国道45号を南下し田老に入った。まずグリーンピア三陸宮古の仮設住宅の様子を確認し、次に津波遡上高38mを記録した小堀内漁港に向かった。小堀内漁港に向かう道路は復旧していたが、小堀内漁港の復旧は時間がかかりそうである。次に田老地区を視察、沿岸部の状況は昨年とほぼ同様であるが、乙部高台の造成工事が大規模に進められていた。最後に宮古市田老総合事務所に隣接した常運寺に設けられた田老地区慰霊碑(犠牲者154名を記載)を訪れた。

2011年4月23日

2012年4月28日

2013年4月27日・28日・29日

2014年4月27日