東日本大震災被災地を訪ねて

岩手県 宮古市(田老地区を除く)

【概要】

震災直後(2011年4月末)、翌年(2012年4月末)に視察した。2年後(2013年4月末)は通過したが視察は行っていない。3年後(2014年4月末)は全線開通した三陸鉄道北リアス線(宮古~久慈)を往復乗車した。

宮古市は、北は岩泉町、南は山田町に接している。津波の高さは鍬ケ崎や宮古、磯鶏、津軽石など宮古市全体で浸水高は海抜10m程度と思われる。一方、重茂半島では姉吉での遡上高40m(海抜)をはじめ、音部、千鶏、石浜などで遡上高は海抜30m近くに達している。その結果、宮古市の死者・行方不明者は鍬ケ崎(57名)、宮古(68名)、磯鶏(65名)、津軽石(57名)、重茂半島(48名)など沿岸部全域にわたり、旧・田老町を含めた宮古市全体では517名に及ぶ。

 

【視察報告】

震災直後(2011年4月末)は田老から国道45号を南下し、宮古市街直前で浄土ヶ浜に回り、遊歩道を徒歩で竜神崎に向かい、高台から宮古市全体の被害状況を把握した。その後に鍬ケ崎に向かい、壊滅的被害の住宅地に打ち上げられた浄土ヶ浜遊覧船(右手後方には鍬ケ崎小学校体育館が見える)や鍬ケ崎小学校付近の被災状況を視察した。なお、鍬ケ崎小学校では2005年に5,6年生90名に2時間半の津波授業(DIG)を行った。

 

震災翌年(2012年4月末)は鍬ケ崎小学校(グランドまで津波が押し寄せるも被害なし)を視察した後に沿岸部を南下、津軽石地区では宮古運動公園に設けられたガレキ処理プラントや高台の赤前小学校に設けられた仮設住宅などを確認した。津軽石からは堀内(防潮堤により住宅地は無被害)を経て重茂半島に入り、高台の重茂の集落、漁業協同組合、診療所などの無事を確認した。しかし、斜面を下った重茂漁港付近は壊滅的被害であった。石碑には明治三陸地震で死者250名、昭和の三陸地震で死者47名との記載があるにも関わらず。その後に姉吉の石碑を目指した。姉吉では海岸線から住居までの経路を確認し、姉吉の西1kmにある千鶏に向かった。千鶏の津波遡上高は海抜30mで住宅地はほぼ全滅、高台の千鶏小学校も1階部分が津波に襲われた。

 

震災2年後(2013年4月末)は宮古市の視察は行っていない。

 

震災3年後(2014年4月末)は田老から国道45号で宮古市に入った。

再開した道の駅「なあど」や鍬ケ崎地区の復旧状況を視察した後、全線開通した三陸鉄道北リアス線(宮古~久慈)を往復乗車した。宮古を出発すると列車は山中のトンネルが続くなか、山口団地駅、一ノ渡駅、佐羽根駅を通る。トンネルを抜け田老駅に近づくと一面更地となっており、万里の長城といわれた防潮堤が近くに見える。この宮古~田老間は震災直後に復旧した。田老を過ぎて10km近い真崎トンネルを抜けて摂待駅に到着、摂待での津波は線路直前までで、駅付近や田老第三小学校は被害軽微であった。さらに摂待トンネルを抜けると小本駅である。小本駅も津波被害を受けていないが、海岸までの地域の被害は大きい。小本駅を通過すると小本トンネル、切牛トンネル、浜岩トンネルと10km近くトンネルが続き島越駅に至る。島越駅から見える島越漁港の被害からこの付近の被害の大きさを感じることができる。ここでは駅舎も含めてトンネル間の高架橋がすべて破壊された。島越トンネル、平井賀トンネルを抜けるとすぐに田野畑駅である。平井賀地区では田野畑駅付近のみ奇跡的に津波の被害を免れたが、周囲は壊滅的被害で、トンネル間の高架橋も流された。この間の復旧により北リアス線が全線つながった。次に羅賀トンネルや普代トンネルを抜けて普代駅である。普代駅は大水門で守られた。普代駅からは力持トンネルを抜けて白井海岸駅、トンネルが断続し沿岸部の風景を堪能しながら堀内駅(あまちゃんでは「袖ヶ浜駅」)、風光明媚な下安家漁港を通って野田玉川駅、防潮堤が復旧工事中の景勝地「十府ヶ浦」と並行して進み陸中野田駅である。陸中野田駅以降は内陸部の陸中宇部駅を通り久慈駅に到着し、次の列車で宮古駅へ戻った。

 

 翌朝は山田町に向かった。途中、高台に位置する藤の川地区の住宅団地および、災害直後の道路啓開に活躍した国道交通省三陸事務所を視察した。

2011年4月23日

2012年4月29日

2013年

2014年4月27日

2014年4月28日